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日記1016

為末大の『熟達論』(新潮社)を読んでいた。 以下の箇所が私的に示唆深かった。    “例えばごっこ遊びというものがある。子供たちが、砂場でおままごとをしていて「今日の晩御飯はカレーライスよ」と言いながら、おもちゃのお皿に土を乗せる。「わぁ今日は僕の大好きなカレーライスだ」と言いながらそれを食べるふりをする。  この他愛もないやりとりの中には二つの相反する姿勢が組み込まれている。例えばこんなのただの土じゃないかと馬鹿にすれば、ごっこ遊びは成立しない。一方で、カレーライスと言われたからといって本当にそのまま食べてしまえば、相手もびっくりするだろう。本気でそれを信じてもごっこ遊びは成立しない。  それが虚構であると知っていながら、本当のように振る舞うからこそごっこ遊びは成立する。遊びは微妙なバランスに立つ。スポーツは本気でやるからこそ面白いが、一方で試合の勝ち負けを引きずって、負けた相手をずっと恨むようなことがあれば、弊害が大きい。文化祭にクラスで演劇を上演する時に、こんなのお芝居だからとくすくす笑っていたら劇が成立しない。遊びが成立するのは、本当でありながら虚構でもあるという状態を、その場を形成する皆が暗黙に了承しているからだ。” (pp.61-62)   自分の感覚では、ここで例示されたごっこ遊びの「相反する姿勢」は「遊び」にとどまらない。もっと広く、社会性の話だと思う。たとえば何かしら書類と向き合うとき、「こんな紙っぺらになんの意味があるんだ」と疑いだすと、むなしくてやる気が起きない。かといって、「この書類を落としたら人生が終わる!」と気負い過ぎてもプレッシャーで作業に入りづらい。なんとなく信じながらも、まあまあ適当にやっつけはじめる。いい塩梅に信じる心をもって。 貨幣がいちばんわかりやすいか。「こんなものただの紙や金属だ」という姿勢では生きていけない。かといって、執心しすぎて使う余裕を失っても孤独になる。たいてい、付かず離れずの距離を保って生活している。 こうした、いわば「おままごとのジレンマ」は、あらゆる場面で生じうる。わたしは、さまざまな切り口からずーっと、この「信じ過ぎても疑い過ぎてもやってけまへんわな」という図式にこだわりつづけている気がする。ひいては「ふつう」ってなんだろうね、みたいな問いにもつながる(たぶん)。「リアリティ」ってなんだろうね、みたい
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日記1015

前回( 日記1014 )のつづき、みたいなものを書こうと思う。かんたんに。ちょこちょこっと、メモ程度に。適当に。(そう言い聞かせないとはじめられない)。 2月のはじめ、以下の記事を読んだ。 【憲法学の散歩道/長谷部恭男】 第37回 価値なき世界と価値に満ちた世界 - けいそうビブリオフィル きょうは3月7日(木)。時間が経ってしまったけれど、この1ヶ月なんとなく頭の片隅に渦巻いていたもの。  “ヘアは戦地の捕虜収容所で、サルトルは占領下のフランスで、この世に与えられた意味はなく、すべての価値は本来無価値な世界に、孤独な主体が与えるものだと考えた。第一次世界大戦への従軍中に『論理哲学論考』をまとめたウィトゲンシュタインも、同様に考える。戦争を典型とする非常時の下では、すべての価値は剝奪される。あらゆる価値は主体が自ら選択し、無価値な世界に与えるしかない。    しかしそれは戦地での、より一般化すれば非常時での生き方である。通常時の生き方とは異なる。人は一人きりで生きてはいない。人々が共に棲まう日常世界では、人は所与の生活様式を当然の前提とする。価値を含むことばの使い方もそうである。”   このあたり、前回の記事で引用した長田弘の「戦争というホンモノ/平和というニセモノ」と関連する。ひいては、そこから取り出した「一回性/複数性」の二項とも。「ひとり」を前提としたことばの体系と、「みんな」を前提としたことばの体系とのあいだでは、きっとコミュニケーションが成り立ちづらい。そんなことも思う。 社会的には平時でも、人は孤独を宿している。それぞれに個人的な非常時も訪れるだろう。いつ災害に遭うとも、事故に遭うとも知れない。それまでの価値観を変更せざるをえなくなるときがくる。喪失を経て、なお生きている。そこから始まることばがある。 しかし同時に、いかなるときも周囲は価値や意味であふれている。人は孤独を宿しながらも、ひとりではありえない。「体にいくつかの穴が開いているように、孤独にも他者を迎える穴が開いている」と数日前、友人へのメールに書いた(わたしの私信はブログと大差ない)。忘れがちというか覚えていないけれど、わたしたちはみな、母胎から分化してにゅるにゅるこの世に登場した激ヤバな過去をもつ。まるでそんな過去はなかったかのような素振りでサバサバ生きているが、人間は元来にゅるにゅるし

日記1014

2024年1月1日(月) 部屋の整理をしていたら、11月の文学フリマで吉川浩満さんから「金のインゴットです」と手渡されたオマケが出てきた。謎の購入特典。適当に「おお、うれしい!」などとリアクションして受け取ったものの、これがなにを意味するのかわからずにいた。小さな金のインゴット。まさか本物の金ではあるまいし……。まあいいやと放り出して、そのうちに忘れていた。 まじまじ眺めると、「FINE GOLD」の文字。その下に「YAOKIN」とも。やおきん? 聞いたことがあるような。調べると、うまい棒で有名なお菓子のメーカーだった。ハッとする。お菓子にまったく興味がなく無知であるせいで年明けまで温存してしまった。このインゴット、剥けるぞ! 中身はなんとチョコレートだったのだ! 知っている人からすれば「アホか」と思われそうだが、「こんなチョコあるんだ~」と感激してしまう。久しぶりにお菓子を食べた。インゴットの謎が解明され、ささやかながらおめでたい1年の始まり、ということにしておこう。「アホ」という意味でもおめでたい。 それにしても「お菓子にまったく興味がない」と書いてみると、ずいぶん冷たい感じがする。ともだちがいなさそうな感じもする。社交を拒む感じ。じっさいそうかもしれない。もうすこしお菓子に興味をもったほうが社会的に成功しそうである。心がけよう。笑顔でお菓子をふりまくあたたかみをもちたい。 くしゃくしゃになったインゴット風の包みを眺めながら、お菓子のない日々を過ごしてきたなあと、ぼんやり思う。お菓子のある日々を過ごす人からすれば、お菓子のない日々は索漠たるものに思われるだろう。でも、その索漠に慣れきってしまった。わたしはお菓子のある日々の自分がもはや想像できない。自分のような人間がそっちへ行ってもよいものだろうか。お菓子ひとつの内に深い溝を感じる。 ここ数年、路上に転がるお菓子のゴミは目に入るが、ゴミ以前の現役お菓子には目もくれなかった。ふつうは逆だ。ゴミばかり構っていて、おかしいな(お菓子だけに!)。すこしくらい市販のお菓子にも目を向けようと思う。ふところに飴でも常備しておく。     元日にここまで書いて更新せず放置していた。そろそろ1月が終わりそう。本日は1月29日(月)。気力があまりない月だった。できるだけ穏やかに暮らしていたいと願う。 何週間か前、『フィリップ・K・デ

日記1013

今日は大晦日。 ふりかえると毎年、知らない誰かとお知り合いになる。誰かしら。来年も、いまは知らない誰かと知り合うのかもしれない。毎年、お別れもある。暑い盛りの8月、「いまどこですか?」というLINEが頻繁にとどいた。約束した記憶がない。知り合いのおじいさんからだった。たぶん、ボケている。何日かつづいたので、「もうすぐ着きます」と返信をしておじいさんの家まで行った。約束した覚えはないけれど、彼はわたしの知らないところでわたしと約束したのだ。スーパーで買った寿司をお土産に持参して、いっしょに食べた。それが最後になった。先月、亡くなったらしい。8月の約束した覚えのない約束については、いまだに整理がつかない。ときどき夢に出る。何件も届く「いまどこですか?」。書く気になれなかったけれど、なんとなく今年のうちに記録しておこうと思った。 わたしの預かり知らないわたしがいる。たしかにいる。そういうことをぼんやり思う。生き霊みたいな。「記憶ちがいだ」「妄想だ」と切断してしまえばそれまでだけれど、それでは納得がいかないから、もうすこしべつのことばでもやもやしてみたい。抱えておく。 忘れることと、思い出すことは不可分なのだろう。忘れるから思い出す。過去の約束を何度も思い出せる。そうして何度でも繰り返し同じ夢を見る。最後に夢見てくれて、うれしく思う。 “人生は反復であり、反復こそ人生の美しさであることを理解しない者は、みずから首をつったもおなじで、くたばるだけの値打ちしかないのである。” キルケゴールの『反復』。そんな罵倒せんでも……と思う。でも、そうかもしれない。年末年始には決まって「繰り返し」を思う。わたしたちはぐるぐるしている。おそろしいほどぐるぐるしている。できるだけ良い感じにぐるぐるしていたいものです。よいお年をお迎えください。 いま、時刻は午後6時。たぶん、カウントダウンなんかせずに粛々と寝る。さっき散歩していたら、こどもたちが登り坂を勢いよく走り抜けていった。ふもとにいる母親らしき女性がそれを見守りながら、「ナイスラン!」と声を上げていた。  

日記1012

12月23日(土) 友人と会う。よく晴れた一日。空気が乾いて空が高い。呼吸をすると鼻の奥が痛む。乾燥に弱いのでマスクを重宝する。立川で見つけたうさぎのマンホールがかわいかった。それから三鷹の禅林寺で太宰治のお墓に手を合わせる。わたしはそんなに太宰を読んでいない。失礼ながら形式的になんとなく手を合わせると、笑いが込み上げてきた。「蛭子さんみたいになっちゃった」と自分でつっこむ。漫画家の蛭子能収さんは、お葬式がどうにも喜劇に見えてしょうがない体質らしい。    “自分でもこの抑えられない衝動がなんなのか考えてみたこともあります。たぶん、僕は建前で悲しいふりをするのが苦手で、なのにそこにいる全員が揃いも揃って見事に神妙な顔をしているのを目にすると、もう葬式全体が“喜劇”のように見えてくるんです。そして、いちどその「魔のループ」に入ってしまったら、完全に終了です。がまんすればするほど、笑いが僕を攻め立ててくるのです。” 蛭子能収「葬式に行くのは、お金と時間のムダ」 「自分の葬式にも来てほしくない」 (2ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)    なんとなくわかる。ひところ年末に流行っていた、「笑ってはいけない」で笑う力学に近いのではないか。あの番組は、笑ってはいけないのにいかんともしがたく笑ってしまう「魔のループ」をうまいこと演出してみせる。目の前でおかしなことが次々と巻き起こるのに、そのすべてに神妙な顔をして付き合わなければならない喜劇性。 「ひどい奴」と思われそうだけれど、お葬式とか、お墓に手を合わせるとか、ちょっとおかしい。葬儀にかぎらず、儀式一般に馴染めない不信心者が社会に一定数いる。儀式は、その共同体に染まっていない人間からすれば基本的におかしい。「いただきます」と手を合わせるところから妙だ。外国人か、あるいは何も知らないこどものような視座で人々を眺めてしまう。はたまた異民族の参与観察に訪れた人類学者か。 蛭子さんはある部分「染まれない人」なのだと思う。「独自の文化を生きる人」とも言える。それは「孤独を抱えた人」でもある。容易に感情を共有できない。通じ合うために、考えることを余儀なくされる。 わたしが笑ってしまったのは儀式一般との距離に加え、とくに太宰に心酔しているわけでもないせいだろう。「知らないおっさんの墓に手を合わせてい

日記1011

  言語を固めていく、獲得していく方向性と、言語をなくしていくというか、やわらかくしていく方向性の両者に気を配る。端的にいえば “being(~である)” と “becoming(~になる)” のふたつ。一方向性と多方向性、ともいえるかもしれない。 中井久夫はとにかく “becoming” の人だと思う。相手の身になる。樹木相手でさえ、「樹の身になって」「隣人としての樹をみる」などと書く。ちょっと過剰なほど「~になる」。「徴候」というキーワードにも “becoming” 的なふくみがある。他方で、「~である」を打ち立てる理論的な視座も忘れない。「~になる」ばかりではなく、距離をつける。そのバランス感覚が読み味として快い。 しかし、ご本人は徹頭徹尾「~になる」タイプだと思っていたらしい。高宣良 編『中井久夫拾遺』(金剛出版)に興味深い証言がある。精神科医、市橋秀夫のコラムから引く。    “彼は病者の治療に当たって、内部に入り込み、病者へのエンパシーというよりも、自身と照合を繰り返して描き出していたように思えてなりません。それは同時に病者のみならず治療者をも危機に追いやる諸刃の剣でもあったはずです。初期の中井はそれを回避するために二つの方法を採用したのではないでしょうか。距離とセラピストフッドです。距離を作るために採用したのは風景構成法・なぐり描きでしょう。自分と病者の間に介在させることで安全な距離を保ったのだと思います。彼は私に「みんな私のことが総説を書ける人と思っているけども、書けません。私が見ているのは鳥瞰図ではなく、虫瞰図の世界です」と述べられましたが、近接距離で見ていたというか、寄り添うというよりはほとんど一体になって見ていることを言語化しているという感覚を私に与えます。”(p.91)   総説は書けないのだと。「鳥瞰図ではなく、虫瞰図」。「トップダウンではなく、ボトムアップ」と言い換えることもできそう。カテゴリーが先にあり、そこへ事物を当てはめていくような思考様式ではない。自身の具体的な経験から、関係に応じて、相手の出方に応じて、現象に応じてことばを立ち上げる。それを徹底する。あらかじめ整序されたロジックがあるのではなく、目の前の混沌を地道な実験でかき分けていくような物腰。 ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書――自閉症者と小説

日記1010

12月17日(日) 中野ムーンステップというライブハウスで、「 unMARIE's 年忘れ音楽祭 」。年末らしいイベント。出演は、 もらすとしずむ・尻軽シティガール・MOTAHEAD・unMARIE's の4組。それぞれ unMARIE's のメンバーが掛け持ちしているバンドだそう。よくわからないまま行った。DMでお誘いいただいたこともあり。ひきこもり気質が年々ひどくなっているため、連れ出してもらえる関係をたいせつにしたいと思う。遅刻して最初の尻軽シティガールは見れなかった。2番手はもらすとしずむ。     Vocalの 万里慧さんと、Machineの田畑さん。 イベントの副題が「 カニとツルツルとイケオジ来るってよ! 」ということで、「いまどき容姿いじるってどうなん?」と田畑さんがつっこんでいた。お笑いコンビ、シシガシラの脇田さんもM-1グランプリで「ハゲはいじっていいの?」とつっこんでいた。わたしも「こういう写真は悪いかな」と感じたが、悪戯心に抗えなかった。この角度を見つけてしまった。「イベントのタイトルにもなっているし」という甘えもある。親愛として受け取っていただければ幸い。「いたずらっぽさ」は写真を撮る動機のひとつとしてつねにあるかな……。悪気がある。 3番手、 MOTAHEADの写真はない。後方に退いてしまったため。演者もさることながら、前列のお客さんも熱かった。わたしの眼前では、テンガロンハットの白人男性がゆさゆさ揺れていた。頭を振りまくっている最前列のお客さんを見て「首痛めないかな」といらぬ心配をしてしまう。余計なことばかり考える。 トリは主宰の unMARIE's。   ドレス姿の御三方。照明で青みがかるベールが美しかった。ときおり奥のほうにうつる影のシルエットもよかったけれど、角度と距離的に撮れず。もらすとしずむ以外、はじめて見るバンド。客層の差を眺めながら、それぞれのコミュニティがあるんだなーと感じる。服装から異なる人々が混ざり合っていた。 自分は相変わらず、どこに行っても疎外感がある。それはもう生まれ持った性質であって仕方がないのだと、このごろは腹をくくった(「ひらきなおった」とも言える)。ただ、音のなかにいるときだけはちがう。とくに爆音だと、言語が無効化されるせいかもしれない。内心にくすぶっているのは、言語的